省略しない数学について
個人的な感覚だが、数学をやる人というのはときに簡潔さを好み、式変形を省略したり、あるいは定理の証明はするのだが、 定理の発見の過程を説明したりすることがなかったりする。
「天下り的に」などという言葉がある。 「なぜそうするのか」は説明しないが、唐突に答えをある形式で表したりして、そうやると「どういうわけかうまくいく」、そのようなときに使う俗語である。
この「天下り的な」解法というのは、私は好まない。 そういった解法というのは、その問題を解くときには役に立つし、また解法を暗記すれば類似の問題を解くのにも役に立つのであるが、 「預言」のような、「天啓」のようなものに頼って問題を解くと、それがなかったときにどうすればいいか迷うことになるだろう。 基本的には、理詰めでやっていくべきなのである。
もちろん、問題の方から式変形をするのではなく、答えの方から式変形するほうがわかりやすい場合があることは否定しない。 たとえば、式の展開は機械的な操作であるが、因数分解はある種の発想が必要とされる。 微分は機械的な操作であるが、積分はある主の発想が必要とされる。 左から右に行く過程を説明していくより、右の方を教えて左に行く過程を計算させるほうが容易い。 これらはいくつかのパターンがあるので、パターンが身にしみこめば、確かにできるようになる。
しかし、それは計算技術を身に着けているのであって、数学をやっているわけではない。 解が既知の問題を素早く解けるだけであり、未知の類の問題を解けるようになっているのではない。 未知の問題を解くためには、少なくとも、「なぜそのように置くのか」ということを理解している必要がある。 その理屈も繰り返していけば理解できるようになると思われるが、初学者の拒否反応は多大なものであり、わざわざそのような摩擦を作り出す必要はない。
もちろん紙数の関係というものもある。 式変形を省略せずに書いたり、いちいちグラフを書いたりするのは、スペースを取るし、またそもそも骨が折れることなのである。 巷の数学の教科書でも「証明略」や「解答略」などとしているものが非常に多い。 しかし、これは、初学者を理解させる、という観点からは、全く悪しき習慣である。 「行間を埋めることで、数学の力が身につくのである」という人もいるだろうが、それが100%できたら苦労しないのである。
苦労を美徳とする向きもあるが、私は不必要に若者に苦労を課すということは、社会の発展(この場合数学の発展)に悪影響であると考える。 もしかしたらその行間を理解して次に進めていれば、その若者は新しい発見をもたらしたかもしれないのに、行間が広すぎることによって、 「自分には数学をわかるだけの知能がない」と思い込んで諦めてしまうのだとしたら、それは全くの損失である。
別に千言万語を尽くして、冗長に説明せよ、などというわけではない。 一つ一つの式変形は、一言で理解できるようなものにとどめ、各式変形に、その一言を追加する。 グラフや図式を多用し、目で見て理解できるようにする。 そういった工夫で、数学を理解する人口は圧倒的に増えるのではないか。 そもそも、「難解」な数学であっても、分解していけば誰でも理解できるものなはずである (数学である以上は)。 数学を難しくしているのは、一部には数学をやる人や数学書の悪しき省略習慣にあると思う。
省略習慣の起源はわからないが、ガウス等は完成された芸術品のみを提出し、その過程については言及しないことが多かったようである。 いろいろなことが言われているが、その理由の一つは他人の理解よりも、美しい真理を発見することが第一であったからではないか。 そういう意味では、数学者は芸術家に近いのであって、彼らに教育的な観点を持ってもらうのは野暮なことかもしれない。 しかし、教育的な観点で真理を説明することで同士が増え、新たな芸術品が世に現れるということもあるのである。
物理的な制約もない電子上の記事であるので、私はできるだけ省略せずに記事を書こうと思う。