春
春も近づく3月である。まだ今日のように肌寒い日もあるが、周りの自然を観察してみると、そこかしこに春の兆しを見て取ることができる。日は昨日よりも今日高く上がり、春の到来を告げる激しい風が町を吹き抜けている。木々の蕾は日ごとに膨らみ、桜が咲くのももう幾ばかりのことであろう。
人生を長く考えよう。そして、その長い人生の中で次の1年、どのように生くべきかを見定めよう。自然は毎日そして毎年同じことを繰り返しているように見えるが、実のところ同じことなどは一切ない。冬の荒涼とした銀世界の下にも、生命は蠢き、来たるべき春を企んでいるものである。去年の春と今年の春はいつも違う。ある木は枯れ、新しい種が芽吹いている。それは親世代とは異なる形に成長するものである。
人生は長い。しかし同時に短いものである。日々を無為に生きぬようにしよう。我々は日々の小さな幸福を愛すべきだが、同時にこの世界で一つの知的な存在として確固たる思想を持ち、自律して生活すべきである。そして何でも良い、事業を企もう。他人とのつながりが、我々を成長させる。意固地になってはいけない。常に他人から学び、他人と会話すべし。そして、外の世界に飽くなき関心を持ち探検せよ。全く自らの力の通用しない場所を求め、そこで自らを試したまえ。安住してはならない。いや、生活の一方では安住し、もう一方では安住しないように努めたまえ。まったく安らぎのない生活とは煉獄のようなものであるが、しかしまったく艱難のない生活というのもまた一つの地獄である。自らを腑抜けにしてはらない。常に良き一人の市民であると同時に、もう一方では危険な探検家であれ。
小さな違いはいずれ大きな違いを生む。気づいたときに修正すればそれで良い。我々の理想というものも日々変化するし、また我々の見識というものも日々広く深くなっていくのであるから、いつかこれが正しいと思って進んだ道も、あとになって振り返れば全く見当はずれであったということもあるであろう。それにがっかりする必要はない。そのときそのときで正しいと思ったことをできているのなら、それ以上のことはなにもない。自分で考えて選んだ道ならば、それが後で軌道修正されたとしても、必ず立派な糧になるものである。自らの知性を信じたまえ。むしろ、これが正しいと思いつつも、勇気がないためにその道を進むことができず、ずっとあとにそのことを後悔するというのが、考えられる限り最悪の人生の悲劇である。我々は深慮であると同時に勇敢でならなければならない。我々は実のところ日々選択を迫られている。とどまるべきか。行くべきか。今日の選択を明日に持ち越すこともできる。それも一つの選択である。しかし、そういう選択を繰り返していれば、いずれジリ貧になる。ときには人間は、暖炉のある温かい小屋から、冷たい風の吹きすさぶ外へ飛び出さなければならない。
我々はただ生存するために生まれたのではない。一人の知的な人間として生きるために生まれたのである。暖かい小屋を出て冷たい風吹く雪道を進む者は、ただ春を求めて進むのではない。その道のりの中に意味があるのである。その道すがらで出会うものに君が向ける温かな眼差し。急な坂道を登るときに流す汗。一緒になって進む仲間とする何気ない会話。そういったひとつひとつのことが君の人生に意味を与える。人生に意味を探してはいけない。君が人生に意味を与えるのである。そうしてたどり着いた春は、去年の春よりもずっと豊かなものである。
貧しい心で生きてはならない。豊かに生きたまえ。隣の人を助け、他人に誇れるような立派な生き方をしたまえ。後で自らを振り返って恥じるような生き方は、なんであれ、我々を惨めで矮小なものにする。美しいものに目を向け、弱きものを助け、外がいくら寒かろうと、心には常に春を宿さねばならない。