エンジニアリングは属人的であるという仮説
昔は、僕のやっている仕事、エンジニアリングというのは、「私が死んでも代わりはいるもの」というようなもの、 誰でもできるものだと思っていたけれども、最近はそうではない、 「その人が死んだらそのプロダクトは終わりだ」というものが実際に存在するし、それは意外と多い、むしろそれが多数であるというふうに思うようになった。
たしかに、能力的な話をすれば、他の誰でも作ろうと思えば作れたのだろう、というプロダクトは多いと思うし、能力的に他の誰にも作れないプロダクトというのは実際少ないと思う。 けれども、他の人は作ろうと思わなかったのだし、それは作れなかった・作れないということと外面的に大きな違いはない。 興味や熱意の方向というのは、その人の極めて個人的なものであるし、エンジニアリングをするということには、多大な興味や熱意というものが必要不可欠なので、そういうことが起こる。 そして、興味や熱意がなければ、そのプロダクトの最も深い部分というのは見えないものなので、適切な引き継ぎというのも稀にしか存在しない。
非常に人気のあるOSSのプロジェクトとかでもない限り、作者の死(物理的な意味と、そうでない意味がある)と同時に、興味や熱意を持った人が見つからずに死んでしまうプロダクトというのは多いのだろう。 それは、「その人」のプロダクトであり、代わりは利かない。 エンジニアは自分が熱意を持って取り組んだ仕事を誇りに思うべきだし、そしてそれを簡単に引き継げると考えるべきでもない。