海と毒薬を読んだ
金曜日の昼休み、私は水道橋から白山通り沿いに神保町に向かって歩いていた。
普段はオフィスの周辺で昼食を取るだけだが、この日はなんとなく別の刺激が欲しくなり、神保町の喫茶店に足が向いたのである。
中高生の時はよく小旅行気分で自転車に乗ってこのあたりの古本屋を訪ね歩いていたけれど、最近では仕事に直接関係ない本を買うことは少なくなった。
せっかくなので、通りの古本屋の文庫本棚から、目についた『若山牧水歌集』と『海と毒薬』の2冊を購って、喫茶店に持っていくことにする。
若山牧水は、高校生のとき国語の教科書に載っていた歌が好きだった。
たしかこんなのだったか。
いくやまかわ 越えさりゆかば さびしさの はてなむ国ぞ 今日も旅行く
一方の遠藤周作は、中学生のとき『沈黙』を読んで、それ以来だ。
読んだとき、とても心を動かされていたのを覚えているけれど、それ以外の遠藤周作の作品を読もうと、当時は思わなかった。
それはおそらく、他の作品にスイと移動できるほど、『沈黙』のテーマが軽くなかったからではないか。
しかし、その当時感じていた「遠藤作品の重み」をすっかり忘れていた私は、特に何も考えもなくこの文庫本を手にとってしまった。
今日この本を読み終えて、当時の感覚を思い出したような気がする。
『海と毒薬』。
この作品もまた、暗く、重い雰囲気とテーマを持つ作品だった。
戦争という環境下で、結核患者で過密する大学病院。
多くの人が死んでいく中で、生体実験という「罪」に近づいていく勝呂医師。
物語に、安易な救いはなく、裁かれる人々の心理面の叙述が続く。
私が最も恐ろしかったのは、中盤、田部夫人が亡くなる手術シーン。
「ガーゼ、・・・・・・ガーゼ・・・・・・。血圧は?」
「下っています」
その時、苦痛に歪んだ顔でおやじはこちらをむいた。それは泣きだそうとする子供の顔に似ていた。
「血圧」
「駄目です」と浅井助手が答えた。既に彼はマスクをかなぐり捨てていた。「死にました・・・・・・」
脈を計っていた看護婦長が力なく呟いた。
手術は簡単なものだと前半で語られていたこともあって、この展開は予想外で、この後の手術室の描写も含めてショッキングなものになっている。
この出来事が物語のもう一つの山場である生体実験につながっていく心理的連続性は凄まじい。
思えば、戦争後しばらくは、人を殺したことのある人間が、普通に生活をしていて、それは全くの日常だった。
この本が書かれた時代、1957年も、そういう日常が残っていた時代だった。
ガソリンスタンドでは傷痍軍人が働いていて、洋服屋の主人は戦時下大陸に従軍していた。
それは、その戦争のずっとあとに生まれた私にとって、全く想像できないような日常である。
『海と毒薬』は、決して戦争をテーマに据えているわけではない。
どちらかといえば、その重心は、「日本人の罪の意識」の方にあるのであって、戦争はあくまでそれを演出するための設定に過ぎない。
けれども、あの戦争という異常な出来事が引き起こした心理的衝撃は、やはり大きかったのだろうな、と改めて思った。